【ヤンキースの歴史】なんでチーム名がヤンキースになったの?

球団史

こんにちは!ハビアーです。
今回はメジャーで一番の人気チーム、ニューヨーク・ヤンキースの歴史を振り返りたいと思います。
この球団の成り立ちから、現在に至るまでをまとめてみたので、是非最後までどうぞ!

 

球団創設は1903年、解散したボルチモア・オリオールズのフランチャイズ権を購入し、ニューヨーク、マンハッタンに移したことが始まりです。

当時のチーム名は「ハイランダーズ」
これは当時の球団社長ジョセフ・ゴードンがスコットランド系の血筋で、当時人気だったスコットランドの軍隊「ハイランド連隊」にちなんで付けられた説があります。

また、本拠地を構えていた場所が、マンハッタンで最も高い場所の1つであったため、ハイランダーズの由来となった説があり、球場は「ヒルトップ・パーク」と呼ばれるようになりました。

その後「ニューヨーク・ハイランダーズ」は、1912年に早くも伝統のピンストライプのユニフォームを採用します。

それまでは、胸に大きくNYと書かれた紺色のジャージと白ジャージを着ていました。
そして、1913年には、チーム名が正式にヤンキースへと変更されます。
それまでもこのチームはヤンキースというニックネームで呼ばれていました。

どうやら、アメリカ北東部出身者のことを指す「ヤンキー」という俗称があり、新聞の見出しに収まりやすい、ヤンクス、ヤンキースという名前が定着していきました。

また、1913年には、本拠地をジャイアンツと共同のポロ・グラウンズへと移し、高い場所ではなくなったことで、ハイランダーズとの整合性が取れなくなったことも関係していると思われます。

その後のヤンキースは、球団創設から1919年までの間、一度もリーグ優勝がありませんでした。
そんな球団の運命を大きく変えたのが、野球の神様と言われたベーブ・ルースの加入でした。
1920年にレッドソックスが金銭トレードで手放すと、ルースは外野手に転向し、一躍ニューヨークのスターになりました。

1921年にヤンキースは、初のリーグ優勝を成し遂げ、ルースのホームランを見るために観客は倍増。1923年には、新球場ヤンキー・スタジアムに移り、この年チームは初のワールドシリーズ優勝を果たします。

以降10年間で4度ワールドシリーズで優勝し、ルースが60HRを放った1927年には、ルー・ゲーリッグというこれまた名選手が台頭していました。

その後は、ルースがチームを離れるも、ゲーリッグとジョー・ディマジオの2人が牽引し、1936年からは4年連続でワールドシリーズ優勝。

ただ、1939年には、ゲーリッグがALSという全身の筋肉が弱っていく病気で、現役引退。
2年後には、37歳の若さでこの世を去り、「ルー・ゲーリッグ病」と呼ばれるようになりました。

その後は、1941年にジョー・ディマジオが56試合連続安打を記録。
これは未だに破られていない大記録となっています。

そんなディマジオの現役最終年である1951年に入れ替わる形で、新たなスター、ミッキー・マントルがデビューします。

マントルはその後メジャー最高の選手の1人に成長し、1956年に三冠王を獲得。
このマントルの台頭もあり、1947年以降の16年間で、なんと10回のワールドシリーズ優勝を成し遂げました。

1961年にはロジャー・マリスがメジャー新記録の61HRを放ち、その後約30年以上これを破るものは現れませんでした。

そんなヤンキースの黄金期も終わりを迎えます。

1964年に放送会社のCBSがヤンキースの株式80%を買収。(当時の価格で1120万ドル)
ここから一気にチームは低迷し、POからも遠ざかっていきます。

 

CBSによる球団買収から、その輝かしい栄光に陰りが見え始め、1965年には40年ぶりの負け越し。1966年には1912年以来のリーグ最下位に転落する屈辱を味わいました。

この低迷の背景には、アフリカ系選手の採用に消極的だった球団の保守的な姿勢が競争力低下を招いたことが挙げられます。

結果的にCBSのオーナーシップ下では、チームは一度もワールドシリーズに進出することなく、「冬の時代」を過ごしました。  

しかし、1973年にジョージ・スタインブレナーがヤンキースを買収しチームの再建に乗り出します。

彼は当時黎明期にあったフリーエージェント制度を積極的に活用し、キャットフィッシュ・ハンター やレジー・ジャクソン といった球界のトップ選手たちを次々と獲得しました。

この積極的な戦略により、チームは競争力を取り戻し、1976年には12年ぶりのリーグ優勝。
1978年にはワールドシリーズ連覇を達成しました。

当時は、監督のビリー・マーチンと新加入レジー・ジャクソンの間で衝突が起こり、そこにオーナーのスタインブレナーが介入。
今度は監督とオーナーの間でもぶつかり、マーチンの解任と復帰を繰り返しました。

これを見た地元ニューヨークのマスコミは、「ブロンクス・ズー(ベンチはまるで動物園のようだ)」と報じ、この言葉は当時のヤンキースのチーム状況を象徴するものとなりました。

このような内部でのいざこざもありながら強さを発揮していたヤンキースでしたが、それも長くは続かず、1980年代に入ると再び低迷期に突入します。

 

スタインブレナーは引き続き、FA市場に巨額を投じ、1980年にはデーブ・ウィンフィールドと当時最高の10年2300万ドルの契約を結びます。

しかし、チームは1981年以降POに進めず、他球団も同様の戦略を取り始めたことで、ヤンキースが享受していた優位性は失われていきました。

さらに、有望な若手選手たちをベテランとのトレードで放出し 、若手育成を軽視したことも、低迷の大きな要因でした。  

この時期のチームは、ジョージ・スタインブレナーの「ザ・ボス」としての介入が最も顕著な時代でもありました。
彼は、チームの成績が思わしくないと判断すると、すぐに監督を解任し、新たな監督を招聘しました。
彼の最初の20年間のオーナーシップで、実に20回もの監督交代が行われたという記録は、その異常な頻度を物語っています。

 

そんなヤンキースに再び転機が訪れたのは、1990年代に入ってからでした。

1990年にスタインブレナーがアメリカン・リーグからオーナー停職の処分を受け、ゼネラルマネージャーに就任したジーン・マイケルが、マイナーリーグからの若手育成を重視する方針を打ち出しました。

この方針の転換が、後の黄金期を築く土台となります。

この育成戦略の最大の成果が、後に「コア・フォー」と呼ばれることになるデレク・ジーター、マリアノ・リベラ、アンディ・ペティット、ホルヘ・ポサダの4選手です。

彼らは1990年代初頭にヤンキースのマイナーリーグシステムで共にプレーし、4人揃って1995年にメジャーデビューを果たしました。  

そして、1996年、ジョー・トーリが監督に就任します。

トーリは、それまでPOで一度も勝ったことのない監督でしたが、スタインブレナーと選手たちの間の緩衝材となり、長期的な関係を築くことになります。

その後は、「コア・フォー」とトーリ指揮官の下で、ヤンキースは再び黄金期を迎えます。

1996年にはアトランタ・ブレーブスを破り、18年ぶりにワールドシリーズの栄冠を手にしたのです。

これは、新たな王朝の始まりを告げるものでした。

1998年にはアメリカンリーグ記録となる114勝を達成し 、サンディエゴ・パドレスをワールドシリーズでスイープし、24回目の世界一に輝きました。

さらに1999年、2000年と3年連続でワールドシリーズを制覇し、それ以降、3年連続ワールドシリーズ制覇という偉業は達成されていません

2000年代に入ってからも、ヤンキースは依然として強力なチームであり続けましたが、ポストシーズンでは苦戦を強いられることが多くなりました。

特に、長年のライバルであるボストン・レッドソックスとの対戦は、野球史に残る激しい戦いとなりました。

2003年のALCSでは、第7戦アーロン・ブーンのサヨナラホームランでヤンキースが劇的勝利。

しかし、翌2004年のALCSでは、ヤンキースが3勝0敗とリードしながら、そこからまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ進出を逃すという屈辱的な敗戦を経験しました。

 

2008年、ヤンキースは13年続いたポストシーズン連続出場記録が途絶え、旧ヤンキー・スタジアムでの最後のシーズンを終えました。

そして2009年、旧スタジアムのわずか1ブロック北に、23億ドルを投じて建設された新ヤンキー・スタジアムがオープン。

新球場での最初のシーズンに向けて、チームはマーク・テシェイラ、CCサバシアらを補強し 、新監督にはジョー・ジラルディが就任。

新体制となったこの年、ヤンキースはレギュラーシーズン103勝を挙げ地区優勝を果たします。

そして、ワールドシリーズの舞台でフィラデルフィア・フィリーズを破り、見事27回目のワールドシリーズ制覇を達成したのです。

当時のシリーズMVPはゴジラこと松井秀喜選手であり、ワールドシリーズ第6戦では2本塁打6打点の大活躍。
日本人史上初のワールドシリーズMVPに選ばれました。

栄光のシーズンを送ったヤンキースですが、その後は再びポストシーズンでの苦戦を強いられることになります。

2010年から2022年の間に5度もALCSで敗退するなど、ワールドシリーズの舞台に立つこと自体が困難な時期が続きました。

2010年代には、黒田博樹投手や、イチロー選手がヤンキースに所属し、2014年には、田中将大投手が7年1億5500万ドルの大型契約で加入しました。

その後もポストシーズンの壁に跳ね返されていましたが、2017年には、新たなフランチャイズの顔となるアーロン・ジャッジが台頭。

ジャッジは2017年に新人王を獲得し、マーク・マグワイアの新人本塁打記録を破る52本塁打を放つなど、その才能を爆発させました。

ジャッジはその後もチームリーダーとして成長し、2022年にはリーグ新記録の62本塁打を放ち、シーズンMVPに輝きました。
さらに2024年にもシーズンMVPを獲得するなど、歴代最強クラスの打者となっています。

そんなジャッジを筆頭とするチームを、2018年からはアーロン・ブーンが監督として指揮し、就任から7年間で6度ポストシーズンに進出。
強豪がひしめくAL東地区で3度の地区優勝を果たしました。

そして、2024年は2009年以来久しぶりにワールドシリーズの舞台へ戻ってきましたが、ロサンゼルス・ドジャースに敗れ、世界一には届きませんでした。
最後は守備のミスが重なって自滅する形となり、悔しい結末になってしまいました。
この悔しさは、ワールドシリーズで晴らすしかありません。

2025年にヤンキースは長年の伝統であった「髭ポリシー」を撤廃しました。

これはジョージ・スタインブレナーが1976年に導入して以降、長年守られてきました。
日本の高校野球では最近まで坊主が当たり前となっていたそんな感じでしょう。
これを撤廃することで、より多様性を意識し、選手獲得の間口が広がりそうです。

 

ちなみに、フォーブス誌が毎年発表しているスポーツチームの資産価値ランキングでは、ニューヨーク・ヤンキースが75億5000万ドルと推定され、メジャーリーグチームではトップ、全体では4位に付けています。

やっぱりヤンキースは1つのブランドとして出来上がっていますし、少し前まで日本人選手が所属していた関係で日本での知名度も高いです。

あのキャップなんかは、メジャーに興味がない人でも、ファッションアイテムとして身につけたりもすると思うので、世界で最も人気なベースボールキャップといっても過言ではないでしょう。

 

ここまでお読み頂きありがとうございます。
今回は、ニューヨーク・ヤンキースの歴史を振り返りました。

皆さん、ヤンキースのチーム名の由来はご存知でしたでしょうか。
私自身、そういえばなんでヤンキースなのか気になって調べてみたのですが、もしかしたら少し間違っているかもしれません。
その他の部分ももし、間違えている部分があれば、コメントで教えて下さい。

ヤンキースには、ベーブ・ルースから始まり、様々なスターが出てきましたが、今後はアーロン・ジャッジが元気なうちに、再びワールドシリーズを制覇することができるのか。
他球団のファンであっても、ヤンキースの動向が気になるという方は多いと思います。
これからも、そんなヤンキースの今後に注目していきましょう。

最後までお読み頂きありがとうございました!

コメント

タイトルとURLをコピーしました