こんにちは!ハビアーです。
少し前にパドレスがなぜ茶色をメインカラーに選んだのかについての記事を書きました。

そこでパドレスの歴史も簡単に振り返りましたが、これが結構おもしろくて、球団によって様々な歴史がある。
球団の歴史を知ることで、よりそのチームを好きになるきっかけになるかなと感じました。
ということで、今回は現在メジャー最強の球団ロサンゼルス・ドジャースの歴史を振り返りたいと思います。
第1章:球団創設
ドジャースは元々ロサンゼルスではなく、ニューヨークのブルックリンで1883年に設立されたチーム。
翌年からは当時のプロ野球リーグ、アメリカンアソシエーションに加盟し、1889年には初のリーグ優勝を成し遂げました。
翌1890年からは現在のナショナルリーグに「ブルックリン・ブライドグルームズ」として加盟。
ちなみに、このブライドグルームズは、花婿という意味で、これはチームメンバーの何人かが同時期に結婚したことが由来となっています。
当時は、まだドジャースとは呼ばれておらず、主に新聞では、地名そのままのブルックリンやブルックリンズ。
また、ユニフォームの色がグレーだったため、記者からはグレイズとも呼ばれていたそうです。
他にも、当時の監督がウィルバート・ロビンソンだったことからロビンズなど呼ばれ方はバラバラで、
このチームが正式にドジャースと呼ばれるようになったのは、1932年からとされています。
ドジャースの由来は、Dodgeが英語で「避ける」
当時のブルックリンには、路面電車トロリーが走っており、当時最も有名な野球記者チャールズ・ドライデンがブルックリンで路面電車を避ける歩行者にちなんで、「トロリー・ドジャース」と名付けられ、ここからドジャースというチーム名が定着しました。
そんなドジャースですが、1921年からは20年間ワールドシリーズに進めず、未だWS優勝の経験はありませんでした。
第2章:ジャッキー・ロビンソン登場
そんな中、1940年代には、メジャーリーグの歴史を変えた偉大な選手が登場します。
その男の名は『ジャッキー・ロビンソン』
当時のゼネラルマネージャーブランチ・リッキーは人種差別を打破できる選手を探していました。
リッキーは、ニグロリーグでプレーしていたロビンソンに目をつけ、マイナー契約でチームに引き入れました。
19世紀後半に、野球界では、人種差別が起こり、黒人選手はメジャーリーグと傘下のマイナーリーグでプレーできなくなり、ニグロリーグでプレーするようになっていました。
これは暗黙のルールとして暫く定着し、それを破るものは現れませんでした。
当然それを破れば、処罰はないとはいえ、ファンからのやじや相手選手から妨害があることは目に見えていました。
それでも、ロビンソンは、黒人選手のチャンスを広げたい想いから、差別的な仕打ちに反撃しないと、リッキーの考えに同意しました。
ドジャースはその後ロビンソンと1947年にメジャー契約を結び、1884年以来初のアフリカ系アメリカ人がメジャーリーグの舞台でプレーしました。
映画「42」でこの選手のキャリアが語られているので、そちらを見て頂けたらわかりやすいかもしれません。
1997年には、ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となりました。
メジャーリーグでは、毎年4月15日にジャッキー・ロビンソン・デーとして選手全員が背番号42を付けてプレーします。
これは1947年にロビンソンがメジャーリーグデビューをした開幕日であり、メジャーリーグの歴史を変えた大変重要な日です。
このロビンソンの活躍もあり、ドジャースは彼が引退する1956年までの10年間で5度のWS進出。
当時のメジャーリーグはまだ地区制が始まっておらず、ワールドシリーズで戦うのは両リーグの勝率1位でした。
つまり、いきなりの頂上決戦であったわけですが、当時のドジャースはライバル関係にあったニューヨーク・ヤンキースに5度もWSで敗れていました。
それでも6度目の1955年は4勝3敗の激闘を制し、ついにドジャースが球団史上初のWS優勝。
その翌年には、再びヤンキースに敗れ、ロビンソンは引退してしまいますが、その後も第一次黄金期は続きます。
第3章:ロサンゼルス移転
ドジャースは初めての栄冠を手にしてからわずか3年後。
1958年にブルックリンからロサンゼルスに移転します。
当時のオーナーであるウォルター・オマリーは、球界での影響力を持っていました。
オマリーは、地理的な面で西海岸に移る際は、一緒に移るチームが必要だと考えていました。
そこで、オマリーは当時のサンフランシスコ市長をニューヨークに招待し、ライバル関係にあったニューヨーク・ジャイアンツのオーナー、ホレス・ストーンハムと会談させる。
当時ミネソタへの移転を検討していたストーンハムを西海岸に移転するように説得させました。
これにより、ニューヨークに拠点を置いていた2チームのライバル関係は西海岸で維持されることになりました。
ちなみに、このオマリーの孫は、最近までパドレスのオーナーであったピーター・サイドラーです。
ここで繋がっているとは。
孫のサイドラーが西海岸のサンディエゴ・パドレスを強くし、現在ドジャースとパドレスはライバル関係にあります。
これもオマリーがドジャースを西海岸に移したことによって、生まれたもので、ドジャースとジャイアンツ、そしてパドレスの運命を変えた人物です。
ドジャースがロサンゼルスに移転して最初のゲームには、なんと7万8672人もの観客が詰めかけました。
移転して2年目の1959年に早くも移転後初のWS優勝。
その後は新球場が完成するまでロサンゼルス・メモリアル・コロシアムという仮の本拠地で戦っていましたが、1962年にドジャースタジアムがオープンします。
そして、この頃に出てきたのがドン・ドライスデールとサンディ・コーファックスの2人看板。
ドライスデールは1962年にサイ・ヤング賞、コーファックスは3度(1962,65,66年)サイ・ヤング賞を受賞しています。
この2人の活躍もあり、ドジャースは移転後最初の9年間で4度WSに進み、優勝3回。
ただ、1966年にコーファックスが引退すると、ドジャースの黄金期は一度終わりを迎えます。
第4章:メキシコと日本の名投手
1970年代のドジャースは、ほとんどのシーズンで勝ち越していたものの、ワールドシリーズでは勝てませんでした。
1976年には23年間ドジャースを率いた指揮官のウォルター・オールストンが引退。
新監督には、オールストンの下でトップコーチを務めていたトミー・ラソーダが就任しまfす。
彼はドジャースのユニフォームカラーになっているドジャーブルーを広め、「私を切ればドジャーブルーの血が流れるだろう」という有名な言葉を残しました。
ラソーダ体制になり、ドジャースは再び上昇気流に乗ります。
1981年には、新人のフェルナンド・バレンズエラがサイ・ヤング賞と新人王を獲得。
あとにもにもこの2つの賞を同一シーズンで受賞した選手はいません。
この新人投手の活躍により、ドジャースは1981年に実に16年ぶり、
地区制になってからは初めてWS優勝を果たします。
バンズエラは、メキシコ出身という出自も相まって、多くのファンに愛され、「フェルナンド・マニア」の愛称で親しまれました。
その後バレンズエラの全盛期は1986年で終了しましたが、1988年には再びWS優勝。
この年は新エースのオーレル・ハーシュハイザーがサイ・ヤング賞とワールドシリーズMVPを受賞する大活躍をみせました。
そして1995年には、球団初の日本人選手として野茂英雄が入団します。
野茂投手は1度目の在籍期間を4年で終えますが、加入していきなり最多奪三振を記録し、新人王に輝きます。
日本からきたトルネード投法の男は、すぐに注目の的になり、今度は「ノモマニア」という言葉も生まれました。
これが日本人メジャーリーガーの最初の成功例になり、その後ドジャースは多くの日本人選手を向かい入れるようになりました。
しかし、1994年からはディビジョンシリーズが増え、ポストシーズンが3ラウンド制になったことで、WS優勝はより難しくなりました。
以降、暫くの間、ドジャースは、ポストシーズンで苦戦を強いられることになります。
第5章:最強のチームに
1996年の途中で、トミー・ラソーダが監督を退任すると、それ以降のチームはなかなか体制が定まらず、
2010年代に入るまで、5年以上チームを率いた監督は一人もいませんでした。
そんな中、2008年に1人の左腕がチームに加わります。クレイトン・カーショウ。
やがて史上最高の左腕のひとりとなる彼は、20歳でメジャーデビューを果たし、すぐにエース格へと成長します。
カーショウは2011年に初のサイ・ヤング賞を受賞しますが、チームとしては地区3位。
2010年からは3年続けてPOを逃していました。
そんなドジャースに転機が訪れたのが2012年。
それまでのオーナー、フランク・マッコートの経営問題により、球団は破産寸前にまで追い込まれていました。
そこで登場したのが、投資家グループのグッゲンハイム・ベースボール・マネジメント(GBM)。
彼らがドジャースを当時のプロスポーツチームでは最高額の20億ドルで買収しました。
これにより、ドジャースはメジャーリーグを代表する金満球団になり、2013年には4年ぶりのPO進出を果たします。
さらに、2014年オフにはタンパベイ・レイズから敏腕GMアンドリュー・フリードマンを引き抜き、新設した編成本部長に起用します。
フリードマンは、マイナーシステムを再構築し、スカウティング網やデータ分析を強化。
資金力に頼った補強だけでなく、地盤から固めていきました。
このあたりから、他球団とは一線を画す“持続的な強さ”が芽を出し始めます。
2013年からは3年連続でPOに進出も、中々POでは結果を出せず。
2015年のシーズン終了後には、監督のドン・マッティングリーと両者合意の上で袂を分かち、新監督にデーブ・ロバーツが就任します。
日系アメリカ人として初のメジャーリーグ監督となったロバーツが率いる新体制となってから、ドジャースは更に躍進を遂げていきます。
ロバーツ就任後のドジャースは、2017年、18年と続けてWS進出にし、1988年以来ひさしぶりの栄冠に迫りますが、アストロズとレッドソックスに敗れてしまいます。
特に2017年のアストロズに関しては、後にサイン盗みが発覚し、大きな波紋を呼びました。
選手やファンの間では、「あの年のタイトルは取り返したい」という気持ちが根強く残っています。
それでも──2020年。
新型コロナウイルスの影響で、無観客の短縮シーズンとなりましたが、ドジャースはレイズを破り、ついに1988年以来、実に32年ぶりとなるワールドシリーズ優勝を成し遂げます。
そして、2023年オフには、歴代最高の二刀流選手大谷翔平を10年7億ドル(ほぼ全て後払い)、日本のエース山本由伸を投手史上最高額の契約で獲得します。
日米のスターが揃い、かつてないほどの注目と期待が集まる中、迎えた2024年にドジャースは宿敵ヤンキースを破って、球団史上8度目のワールドシリーズ制覇を果たします。
現時点でPO進出は2013年から12年連続。
そのうち地区優勝は実に11回を数えます(唯一逃したのは2021年、107勝しながらもジャイアンツに1ゲーム差で2位)。
ドジャースは今や日本でも知らない人はいない超人気チームとなり、
Forbes誌は2025年に入りドジャースの資産価値を68億ドルと位置づけています。
これは1位のニューヨーク・ヤンキースの82億ドルには及びませんが、ドジャースは前年から25%増と大谷効果がはっきりと表れています。
ドジャースは西海岸に移ってから、太平洋の向こうにアジア市場、隣国のメキシコなどに目を向け、海外のファンを獲得してきました。
これはヤンキースなど東海岸のチームにはそもそもの距離が遠いため、あまり有効ではありません。
西海岸のチームだからこそ取れる手法をとり、ドジャースはワールドワイドなチームとなっています。
強くなったきっかけは?
個人的にドジャースが迎えた分岐点、強くなるきっかけとなったのは、2012年のグッゲンハイムグループによる球団買収だと思います。
そこから、潤沢な資金力を賢く使える人材を登用し、現体制を築きました。
ここ約10年間は編成本部長アンドリュー・フリードマン、監督デーブ・ロバーツがチームを表と裏でマネジメントする体制が続いています。
彼らが退任しても、その背中を見ているGMやコーチ陣がいい面を受け継いでいくでしょう。
ただ、これは組織に共通して言えることですが、結果を出しているトップからのバトンタッチには難しさがあります。
どんな帝国にも終わりが来ることは歴史が証明しており、いつかはその時が来ますが、今のところ暫くは最強の時代が続きそうです。
そこで日本人選手が主力として活躍している今の状況、これをあとで振り返るとすごい時代だったと感じるかもしれませんね。
最後までご覧いただきありがとうございました。
コメント